2008年3月9日日曜日

様々な疑いと治療

入院してから、一週間はひたすら検査の連続だった。

採血、尿検査は当然として、末梢神経への障害の程度を知るための筋電図。
骨髄液の採取、肉腫の可能性もあるためツペルクリン反応、呼吸器検査、眼底検査。
また血液中の抗体を調べるための外部大学へ依頼しての検査、心電図、尿を1日貯めてから調べる畜尿検査、CT、MRIなどだ。

なかでも、骨髄液採取(ルンパール)はキツかった。
麻酔はするのだが、針を直接、背骨に刺し採取する。
針が少しずつ進み、神経に触れた瞬間に、脚全体に、ものすごい電流が流れたような、それでドーンという重い衝撃が走る。
思わず、声をあげてしまうくらいの辛さ。
おまけに、私の場合、なかなか液が出なかったため、30分もかかってしまった。

また、筋電図は、電流を流すため、まるでスタンガンで何度も攻撃されるような不快感の連続。
しかも、四肢全ての検査だから、実に一時間もだ。

様々な事が疑いがかかっていた。
結核、糖尿病、血液中の異常、膠原病、脳の異常、がん、ギランバレー症候群などなど、たぶんあげればキリがない。

原因がわからなければ治療はできないから、可能性のあるものは全て調べる。

しかし、突き止められない。

医師からは、足の一部から神経を切って調べるかも知れないと話もあった。


しかし、幸いにして、結果としては、どこにも悪いデータがでず、自己免疫異常によるものと診断された。

治療は対症療法ということで、ステロイド服用をすることになった。

ステロイドは副腎皮質ホルモンで、免疫抑制剤だ。
自己免疫を一旦止めて、神経の炎症を抑える必要がある。
しかし、ステロイドには、多くの副作用がある。
代表的なものでは骨粗鬆症、食欲高進による肥満、糖尿病、不眠症、情緒不安定、うつなどだ。
また免疫抑制のため、様々な感染症に注意しなければならない。

まずは、1ヶ月は毎日60mgを続けると言われた。
量としてはmax。
その後は経過を見て、少しずつ減らしてゆくとのこと。
ステロイドは怖い薬で、急に止めると深刻な副作用があるためだ。

また、目安としては、30程度になるまでは退院はできないらしい。
つまり外界のウイルスに対抗できないからだ。

薬に加えて、脚と腕のリハビリも開始された。

まさか、自分がPTやOTの方々にお世話になるなんて、今まで夢にも思わなかったが。

薬の服用とリハビリの毎日が始まった。

2008年3月7日金曜日

やるべきこと、入院

動揺は顔に出ていただろう。

1ヶ月の現場離脱、どうする?これから本番のシーズンというのに。
すでに予約は満杯。いったいどうする?だめか?いや、なんとかなる?ならない?
ゴチャゴチャだ、頭はパニックだ。

そんな顔だったんだろう。先生は一言私に言った。
「仕事はなに?」


説明した。こういうことをやっていると。

そうすると一言、苦笑いしながら、

「替わりがいないんだね」

この一言は、私にとってものすごく嬉しかった。

自分の動揺を、不安を見てくれたことに対して。共感してくれたことに対して。

「でもね・・」
「あなたは、今、身体を治さないといけない状態。

うちはベッドを空ける努力をします。だから、あなたも仕事の都合をつける努力をしてください」

この言葉は重かった。
こう言われたら、空けるしかない。そう思った。
病気を治そうと、一瞬にして覚悟が決まった。
なぜだかわからないけど、なんだか、そう思えた一言だった。

さらに
「1週間くらいで、悪化はないとは思うから、来週に入るようにしてください。それまでに仕事の都合をつけて。ただし、もし、何か変化や悪くなるようなことがあったら、すべてを投げて、すぐにきなさい。いいね?」

そう告げられた。


自分が病気であること、放ってはおけない状態までなっていること。
なんとなくこれまで自分で自分の状態をごまかしてきたこと。
全部が一瞬にして、気づかされたときだった。

おれは病気なんだ。


すぐに仕事場へ戻った。
周囲の関係者には、入院しなければならないこと。現時点では原因がわからないこと。時間がかかることを説明し仕事の整理を始めた。
週末には大きな企画がまっていたので、そのやりくりもあった。
ここまではなんとかやろう。
そう決意して、入院を延ばしてきたのだから、ちゃんとやりたかった。

現場はできる状態ではなかった。
裏方にまわることで手配をし、現場はすべてスタッフに託す。
いままで、自分がいたことで決断できなかった「任せる」ということを、否応なしにやらなくてはならない。
それなりの「覚悟」が必要だったけど、この身体ではお客様に迷惑をかけてしまう。信用することに賭ける。

そして、企画が始まった。

心配は無用だった。

見事にスタッフは、こなしてくれた。
完璧。マインド、パフォーマンスともに申し分なしだった。

このとき、私の状態を、厚意にしてくれているお客様に話していた。
お客様は私にこう言った。

「あなたのやるべきことは違うのよ、現場ではなく、やるべきことは組織を強くすること」

このとき、現場で活躍をしているスタッフを見ながら、この言葉をきいた。
これまで、ひとりで抱えてきたことを実感させられ、自分の役目とやるべきことを思い知らされた。

任せて、治療しよう。
いま、やるべきことは治療。そして私の役目をもう一度考えよう。
いいチャンスだ。

そう思った。

1月末、入院した。

2008年3月5日水曜日

限界とドクターストップ

右腕完全麻痺は、日常生活にも影響してきた。
食事も、洗面も、シャンプーも左手だけだ。こんなに不便なことはない。

いままで、障害のある人と多く接してきたのに、こんなに不便だなんて、気づいてなかったんだ。
耳かきだって満足にできないし、爪なんてどうやって切るのだろう??
お菓子の包み紙も開けられないし、紐なんてまったく結べない。
なってみて初めてわかることだらけだ。

使わないということは、恐ろしい。
みるみるうちに、筋肉が落ち、細くなってゆく。
腕だけでなく、肩もすっかり細くなった。
首まで細くなったと同僚から言われるようになってきた。

ほかの部分についても、悪化の一方だ。
左足のつまさきは相変わらずブラーンとなって、靴下や靴がうまく履けないし、指先の痺れは強く、痛い。

さらにだ、
唯一何も問題なかっら右足先に、痺れが出始めた。
治まってほしいと思って、ストレッチも繰り返すが、じょじょに強くなってゆく。


なんでもやってみた。

風呂でゆっくりと温めることも続けていた。
めんどくさがりやの私が、朝に風呂にいき、体を温めた。

肩には温熱シップを貼り、脚には保温サポーターをつけた。
(実はこれはあまりよくなかった可能性大)

また、鍼灸にもなんども行ってみた。かなりハードに施術してもらった。
鍼の治療は、あとが辛い。
体へのダメージが大きく、だるさで何もできなくなるくらいだ。
でも、治るならなんでもやりたかった。



でも、でも。。。。。。
何をやっても効果がみられなかった。

周りからも東京の大きな病院での受診を強く勧められ、自分でも一度診て貰って、治療がわかれば、こちらでも通いで治せるなと思ったのが1月。

県立病院の整形外科に行って、紹介状を書いてもらった。
すでにこのとき、握力は両方とも10kg程度まで落ち込んでいた。

「神経系をみれるところにいきなさいね。都立か日赤かなあ。」
医師は、そう言いながら、こころよく紹介状を書いてくれた。


数日後、軽い気持ちで、ここ日赤の整形外科外来にやってきた。


症状を説明し、レントゲンを撮る。

担当した医師は
「・・・・、ひとつひとつを見ると、整形かもですが、多発しているのがおかしいです。これは違うところに原因があると思いますので、神経内科を受診してください」


え。。。また神経内科???
なんなんだあ??

待つこと、数時間。
今度は、神経内科で診察だ。
たまたま、診療部長の先生が担当だった。
ドアをあけて入る。

よろしくお願いします。

「あ、○○です、よろしくお願いします」
なんと、金色バッチをつけた、診療部長の先生が、椅子をたって挨拶してくれた。
驚いた。
ほんとにびっくりした。こんな医師初めてだ。


資料を眺める先生。静かな時間が過ぎる・・・・

「うーん、ここまで放っておかないほうがよかったね」

え?そんなにひどいですか?

「簡単ではないですね、たぶん腕があがるまで2ヶ月かかる。すぐに入院して調べて治療をしないといけない状態です。」

そういいながら、先生はすでに右手に入院手続きの用紙をとり、記入しはじめている。

え?入院??
ど、ど、どれくらいですか?

「1ヶ月だね」

えええええええ!!
そんなに?1ヶ月もですか????
ええええええええ、どうしよう。

超予想外だった。

ほんとに予想外、というか、わけわからなくなった、一瞬にして。




そんなドクターストップの日だった。



握力低下、完全麻痺

握力の低下がはじまっていた。
ひとつはしびれと痛みから、右手でものが持てないのだが、つかむ力自体が弱っていた。

夜も眠れない日があった。
指の強い痛みに加えて、坐骨?あたりの痛みがあり、ちょうどお尻の下に盛り上がった硬いものをあてないと、痛くて眠れない。

あっちこっちに不具合発生。

しかし、しびれというのは、本当に不快だ。
ここまで、すべてのやる気がなくなるとは思っても見なかったが、コップがもてなくて酒さえ飲むのも億劫になる。
pc作業など、本来の時間の倍以上かかるのには、まいった・・・


MRIの理由は頚椎ヘルニアを疑ったようだ。
また30分間、うるさいトンネルに入る。

幸い、ヘルニアは発見されなかった。ヘルニアだったら、数ヶ月は入院になってしまう。
医師には、握力の低下も話し、測定した。
右25kg、左45kg。

私は左利きのため、右は弱いのだが、それでも間違いなく10kg以上は低下している。
医師は、一冊の本を取り出し説明した。

「胸郭出口症候群」

筋肉のイラストだらけの本には、そう書いてある。
また初めて聞く病気だ。

鎖骨の下あたりの神経が圧迫されて、手先までしびれや麻痺を起こすらしい。
要は、こないだ言われた「手根管症候群」の鎖骨版だ。

治療はどうなりますか?

「しばらく放っておくしかないね。手術も簡単で4日で退院できるけど、改善される人も多いから」


実は、脚も変なんですけど。靴下が履けなくて、腫れた感じの違和感が続いてるんですが・・。

「爆眠して、圧迫でも起こしたんだろなあ、ちょっと様子見だね」

そうですか・・わかりました。しばらく様子見ます。しびれが痛いから、その薬だけ出してもらえますか。

結局、治療がないわけだ。治るのか??



12月中旬、シーズンに向けてスタッフと足慣らしに滑りにでかけた。
きっと、気分も変わって、嘘のように治ったりするかもな!とほのかな期待をもって。

しかし、その期待は裏切られる・・・

ブーツが入らない。

左のつまさきに力が入らず、ブーツのなかで、丸まってしまってどうにもこうにも履けない。
普通の時間の3倍くらいかかって、なんとか履いたものの、違和感150%!

スキー板が持てない。

握力低下と右腕に力が入らないためだ。

さらに、ゲレンデに立ち、滑り始めても自分の左脚がまったくコントロールできない。
左脚がブラブラしてしまって、方向が定まらず、不安定極まりない。
仕方なく、右足でフォローしながら滑走するが、疲労度が高く、とてもじゃないが続けて滑れない。

やばい・・・・


結局、このあとは、体への負荷が低いお客様のみを担当しながらシーズンに入ってゆくのだが、現場を続けてゆくうちに、さらに症状は悪化してゆく。

年末のある日、ついに右腕が完全に麻痺した。
ブランブランで、少しも曲がらない。
上腕の筋肉が1日ごとに減って、みるみるうちに細くなりはじめたのだった。





2008年3月3日月曜日

脚に麻痺が

顔面のしびれでは、脳梗塞を疑ったようだ。CTのあと、MRIも撮った。(ひっくり返りそうな金額だったが)
結局、血液検査でも異常なく、写真でも脳梗塞は発見されず、ひと安心。

しかし、依然として症状は改善されず、どちらかというと悪くなる一方だ。

一方では、カイロ、接骨院も続けていた。

気持ち的には楽にはなるが、しびれ、痛みについては効いてこない。

いったいなんなんだ・・・。

そのうち、右腕全体が動きづらくなってきた。


しびれが強くなり、使うことが億劫になっていることもあったが、肩にも痛みが出て、辛かったのだ。

pc作業も、じょじょに左手だけを使うようになり、ついにはマウスを左に変更。
さらに、ノートタイプのキーボードがよくないということで、キーボードも購入した。


次の県立病院での検査は「筋電図」だった。
スタンガンのような器具をあて、電流を流し、筋肉の反応を見る。

これ、痛い。かなり不快だ。

バチバチという音とともに、腕に衝撃が走る。

わかっていても、ビクンとなる。
30分以上続いた検査、担当した医師は、

「かなり悪いですねえ、それと、通常の数値ではないなあ、おかしいねえ」
(ここでの、通常の数値ではないというのが気になったが)
まったく右腕に反応がないらしい。

確かに、検査の痛みは左に比べてあきらかににぶい。


この医師が疑ったのは、「手根管症候群」
女性に多く、ちょうど手首のあたりの神経が圧迫されて、しびれ、麻痺が手先にでる、近年増加傾向の病気だ。
治療は、安静・投薬(メチコバール)、ひどい場合は手術で、神経圧迫をおこす筋を切断するという。

「おそらく、手根管症候群ですね。整形外科に紹介しますから、そちらで相談してください」

「こんどは整形外科かあ。でも、はっきりして治るならいいや」

そう考え、そのまま整形外科に。

ここでは、先の記事でも書いたように、医師は一人だけだ。

すごい人が待っている。

「おそらく、2時以降になっちゃいます。携帯に連絡させてもらいますので」
この時点で11時(!)まあ、仕方ないとあきらめる。
結局は、4時まで待たされた。地方病院の悲しさだな・・・

「うーん、うーん」
整形外科医が、うなる。
「そうかなあ??、いままで何百と手根管症候群みてきたけど、男性ってほとんどないんだよね」
「一応、頚椎のMRI撮影しましょう」

ええ、またあ??いっぺんにやってよ・・・

「来週火曜にMRIの予約とりましたから、来てください」

また来週か・・・・



この数日後の朝、左足の靴下がはけないことに気づく。

足先が下がってしまって、すねの部分全体に、あの上唇につづくボワーンとした腫れたような感じがある。
スリッパもはいて歩けない、脱げてしまうのだ。


この時点での異変は
右指先、顔面、左足先、左すね。

整形外科なのかなあ???
そう思いはじめていた。









拡がる違和感、検査、なんでもやる

翌日も、その翌日も、3日たっても「しびれ」は変わらなかった。 というより、内側から押し出されるような痛みが出つつあった。
それに増して、左人差し指にも違和感(しびれ)を感じるようになったのは、1週間後くらいだったろうか。
本人は、この時点では、夏の疲れくらいにしか考えていなかった。
ところが、ある日、ひげを剃っていて、左上唇の感覚が鈍いことに気づく。
歯を抜いたあとの麻酔が残ったような、ぼわーんとした感じだ。

右指先、左指先、唇・・・

「顔面は、あきらかに変だ」
そう思ったのは、最初の違和感から2週間もたったころだった。

翌日、私は、隣町の県立病院に向かった。
しかし、この症状は何科にいけばよい??病院に詳しい(?)わけではない私には、とうてい予想などつかない。
案内で、症状を説明すると、神経内科へ行けと言われる。

はじめて耳にする「神経内科」。さっぱり何の専門なのかわからない・・・。
診察室の前で、看護士さんに、症状を説明し、医師の診察をうける。
この日は、一般的にしびれを改善するといわれる「メチコバール」というビタミン剤を処方された。
時間がかかるらしいが、栄養のかたよりなどによって起こる「しびれ」などには効果があるらしい。
さらに、次週に再度来るように指示をうけた。

地方病院においては、医師不足は深刻な問題だ。
今回の「神経内科」などは、専門医による診察は、週1回のみ。
週1回では、検査も治療もいっこうに進まないばかりか、次に診察するときは悪化していることだってあるはずだ。
今回訪れた県立病院でも同様の問題を抱えている。
整形外科医などは、たったの1人だ。毎日、痛みを抱えた多くの患者が列をなし、医師はその治療に追われている。

薬が効いてくれることを祈りながら、次の週がきた。
この時期は、目の前に迫った雪の季節の準備でなにかと忙しい。打合せなどが目白押しだ。
まさか、こうなるとは思いもよらず、これから始まる大好きシーズンに向けて、様々な仕事をこなしていた。

症状は変わらなかった。
何もだ。
むしろ、痛みが強くなって、右手はにはむくみがあり、すでにPCのマウスさえも使うことが苦しくなっていた。

神経内科医師の診察を受ける。
「気のせいかもしれない」
医師の言葉だ。

「気のせいで、痛みがあるわけねーだろ!」
心で叫んだ。

聞いたことがある、医師は痛みはわかってくれないと。まさに、そんな言葉。
ペインクリニックという「痛み専門」の科なんて、こんな地方病院にあるわけでもなく、きっと、多くの患者が痛みをわかってもらえず苦しんでいるんだろうな。

「念のため検査しましょう。来週また来てください」
「また来週か・・・」

この日は、血液検査6本(!)、脳のCTスキャンという検査を受けて終わりとなった。
検査では、症状がよくなるわけではないし、気持ちもおちつかないし、でも仕事はゴンゴンあるし・・・。


友人に相談すると、カイロを勧めてくれた。
体の歪みなどからきているかもしれない。
確かに、デスクワークが続いた10月だったし、あるえるなと考え、友人のいきつけのカイロに向かう。

ゆがみきっていた・・・
カイロの先生いわく、かなり歪みが出ていると。

これだったのかあ!何か、トンネルの向こうに出口が見えたような喜びの気持ちが拡がった。
施術を受けて帰るとき、少し痛みが少ないような気がする。


また違う友人からは、接骨院も教えてもらった。
事務所から遠くない場所だ。
電気をあて、マッサージをしてくれる。

「かならず治りますからね」
若い接骨院の先生が私に初めてかけてくれた言葉だ。

すでに、変調をきたしてから、3週間が経過し、よくなるどころか拡がる一方だったこのとき、こんな言葉が、どれだけ勇気づけられるか。

自分が人と接する仕事をしてきて、言葉の大切さを実感したときだ。
果たして自分の言葉は、勇気づけられる言葉だろうか?
それより何より、不用意な言葉で、相手を傷つけてしまっていないだろうか?
治療をうけながら、そんなことを考えていた。

その後、脳のMRI、筋電図、整形外科へと続くことなど思いもよらず・・・。











2008年3月2日日曜日

突然の違和感

2007年11月中旬のある夜のこと。
外部での打合せを終え、事務所のあるマンションに戻った。
初冬の空気が心地よい夜だった。駐車場に車を停め、降りようとしたときに携帯電話が鳴った。
取引先の方からの電話だった。

実は、この前に、この方からある企画についての相談を受けていたのだが、様々な状況から判断して、この企画については協業体制が取れない旨を伝えていた。
さらにである、この日、この企画に対する、間接的な応援さえ難しいことになってしまったことを留守電にメッセージとして入れたのだが、そのことに対する怒りの電話だった。

「どういうこと?」

この一言で始まった電話は、感情丸出し、じょじょに声も大きくなる。
私の心のなかでは、申し訳ない思いが拡がってゆく。
おっしゃることは、よくわかる。そのとおりだ。怒るのももっとも。

でも、私としては様々な状況を判断して決断したこと。覆すわけにはいかない。
ひたすら、なだめ、理解を求める。

時間にしては、せいぜい20分程度だっただろうか。
先方も、ようやく落ち着きを取り戻し、なんとかその場は収まった。。。

しかし、これでまた明日フォローに動かなくてはならない。。。。。

この種の、取引上のゴタゴタはビジネスではつきものだ。
昔から、こういう場面を幾度となく経験し、乗り越えてきた。
ある種、こういう処理は得意でもあった。
しかし、今考えると、昔は会社という大きな後ろ盾があり、いわば表面的な対処をしてくればよかった。
たとえ、取引がなくなっても、自分の生活が脅かされることはなかった。

しかし、今は違う。
独立し、ちっぽけながらも組織のリーダーとして動いている限り、私の判断、行動がすべてだ。
好きでこの道を選び、生きているのだから自業自得なのだが、責任やプレッシャーは桁違いだ。

夏にも、同じようなことがあった。
考えられないところから、横槍が入り、本来、関係のないところへ出向き、周囲との調整をすることを余儀なくされた。

「組織の長の仕事とはこういうものなのだ。」
2年目に入ったこの時期、ようやくわかりはじめてきた夜だった。

電話が終わったあと、当然のように強いストレスを感じ、ため息が出た。
と同時に、ハンドルにかけた指先に違和感を感じた。


右手の人差し指がしびれるなあ・・・

これまで、感じたことのない違和感。指先からくるジンジンとした感覚。
痛くはないが、明らかに経験のないしびれ感だった。




人生初の入院生活

多発性単神経炎

これが私についた診断。
ききなれない病気(?)。

2007年ある夜のこと、右人差し指に軽いしびれを感じてから始まった、この体調不良。
ここまで、どのように悪化してきたか、41年の人生で、初めての入院、しかも、予想もしなかった、なんと40日にもおよぶ病院での生活について、経験したこと、見たこと、感じたこと、得たことを、やっと回復の兆しが見えてきた今、振り返って、綴っていこうと思う。